エリックを見張るようになってどのくらいが経つだろうか。私はここオペラ座で何度目かの夏を迎えた。
私やエリックが以前過ごしたペルシアとは違い、パリの夏は厳しく暑いわけではなかった。
特にオペラ座の地下ではいつでも冷気が漂い、涼しいというよりも体の下からすうと冷えてくる薄気味悪い感覚があった。
その日、私はやはりエリックの湖の家へと向かっていた。
どこから吹いてくるのか分からない冷たい風を肌に感じながら、慎重に下へと降りていく。
いつエリックが来るか分からない。私は警戒しながら歩いていた。
ちゃぷん…
湖が目前にせまった時、小さく水の跳ねる音がした。私は反射的に足をとめた。
誰かが湖にいるのだろうか。だとしたら、家の主人か。
私は音をたてぬように慎重に身をかがめた。
ざばん…
陰から湖を覗こうとしたその時、何かが湖に落ちる音がした。
私は体が恐怖で硬直するのが分かった。
誰かが湖に落ちた!セイレイの餌食になってしまう!!
とっさに湖の方へ助けに向かおうとした時、冷静な考えが頭をよぎった。
しかし、セイレイの歌声は聞こえなかった。
もしも湖に誰かが侵入したことを家の主人であるエリックが知ったら、
まずは世にも美しく恐ろしいセイレイの歌が聞こえてくるはずだ。
そしてその歌に聴き入った者が湖の中へ引きずり込まれてしまう…。
私は思わず過去の体験を思い出し、身震いした。
ざばん、ざばん…
するとまた水の音がした。そして今度は、
セイレイの歌だ!!
美しい澄んだ歌声が聞こえてきたのだ。しかも、やけによく聞こえる。
私は今度こそ陰から飛び出して、湖と対峙した。
「…っ!?」
しかし、私は目の前の光景に息をのんで立ちつくした。
「なぜ…なぜ、君がここにいるのだ!!!」
そこには、うきわに乗り、水泳帽をかぶってシュノーケルとゴーグルをつけたエリックが浮かんでいた。
私はみるみるうちに赤面するエリックを呆然と見ていた。
「…君は…何をしているんだ?」
「っ…君には関係のないことだ。それより、二度とここには近づくなと言わなかったかね。」
エリックは口調こそいつも通りだったが、
ふりふりのレースの付いた水着を着てぷかぷか浮いている姿はあまりにも滑稽であった。
「え?ああ…うん、言われたが…君は、あの、」
「いいから出ていけ!」
「いや、君、その水泳帽は、」
「出ていけというのが聞こえないのかっ!」
「……あ、はい。すいませんでした。」
立ち去りながら、私は自分でも顔がひきつるのがわかった。
夏のある日、エリックは一人で水遊びをしていた!!
しかも、黄色い水泳帽まで…小学生でもあるまいし。
しかし…
私の足は自然と止まった。
ダロガと書いて好奇心と読むほど、私はエリックに対する興味関心が強い。
前々から、
ウザいウザい。超ウザい。こっち来んな、警察呼ぶぞ。
とでも言うようなエリックの視線を浴びながらもその謎を追ってきた。
こんなところで立ち去るわけにはいかない。
その上、あんな光景を見てしまったからには…!!
私は足早に来た道を引き返し、再び湖へと向かった。
一度気づかれているからには、先ほどよりもずっと警戒する必要があった。
私は音一つ経てぬよう細心の注意を払って先ほどいた物陰に身を潜めた。
すると、また歌が聞こえてきた。
エリックだ!エリックはまだ泳いでいる。
歌は誰かに語りかけるように響いた。そして、同時にちゃぷちゃぷと水を蹴る音も聞こえていた。
ずいぶんと楽しそうだな…
私は意を決して物陰から顔を少し出して、エリックを見ようと努めた。
「…なんだ、?」
すると、エリックは先ほどと同じように浮わをつけて浮かんでいたが、手に何かを持っていた。
それはとても小さく、私がいる場所からはそれが何かを特定することは極めて難しかった。
それでも必死に目を凝らして見ていると、エリックが笑顔でそれに向かって話しかけ始めたのだ。
「ほおら、クリスティーヌ、泳ぐのは気持ち良いものだろう。楽しいかね?
…そうか、でも君は初め嫌がっていたじゃないか。ふふふ、それが今ではほら、こんなに楽しんでいるね。」
クリスティーヌに似せて作った小さな人形を大事そうに持って湖の中を泳ぎまわっているエリックに、私は何とも切ない思いでいっぱいであった。
この天才は…。
私は涙をぬぐいながらその場を後にした。
後ろの方から、楽しそうに人形と戯れるエリックの声が聞こえた。
「まったく、おいやめろ、クリスティーヌっ。冷たいじゃないかー。そうれ、お返しだっ。」
夏に一人で人形と泳ぐのは止めてくれ。