渡辺はここでスーツのポケットから一枚の紙を取り出した。
それは、よれよれのルーズリーフだった。
薄い鉛筆の字で何か書いてある。
「それは…?」
「秋成の遺書です。」
渡辺はそう言って、紙を私に差し出した。
丸い字で、こう書いてあった。
『お元気ですか?私は元気です。
って、こんなことどうでもいいかな。
心配はしないでいいから。
とりあえず、上田さんに会ってほしいな。
連絡先は○○○‐△△△です。
私のお墓の前でお茶でも飲んでよ。
眺めはいいはずだよ。
そしたらそこで、あの話の結末を聞いてごらん。
じゃあね。』
秋成…誰だ?
どうして私の連絡先を知っているのだろう。
どうして、秋成は私の連絡先を死ぬ前に書いたのだろう。
それに、この渡辺という男は秋成の何なのか。
「変ですよね。遺書じゃないですよね。」
渡辺の声で我に返った。
渡辺にメモを返すと、彼は少し笑いながらそのメモを見つめた。
私は彼に尋ねる。
「『あの話』ってなんでしょうか?」
渡辺は少し困った顔をした。といっても、渡辺の表情は少しずつしか変化しない。
「え、えーと、お心当たりがないんですか?」
「す、すいません。でも、何のことか分からないんです。
…それに、実を言うと、秋成さんという人物さえ思い出せないんですが。」
渡辺はさすがにこの反応は想定外だったようで、驚いた顔をした。
「えーと、困ったな。」と笑いながら繰り返していた。
「私の予想だと…上田さんは秋成の仕事の依頼者だと思っていましたが。」
「仕事?何の仕事ですか?」
渡辺はまた困った顔をした。
「えーと……大きな声では言えないんですけど、その、…気づかれないように、」
「気づかれないように?」
渡辺は今度は、「どうしよう…」と言いながら頭を抱えている。
「じゃあ、これはどうですか。畑本さん。…『畑本健輔』。」
畑本健輔
はたもとけんすけ
ハタモトケンスケ
「ワカレマショウ。」
その時、私の中で引っかかっていたものがすっと取れて、一気に流れが戻った。
戻ったどころではない。今まで忘れていた、忘れようと思っていたことまで、
様々な事柄がいくつもの引き出しから溢れ出て、氾濫し始めた。
必死に作った堤防も意味をなしていない。もう、止めようがない。
そして、その流れの底の方に、水羊羹を食べる秋成の姿があった。
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